四旬節第二主日

典礼暦の中に置かれた「季節」について簡潔に説明し、季節の中のある主日には固有のテーマが与えられていることを指摘したうえで、その一つである四旬節第一主日のテーマを深めました。四旬節は、第二主日にも固有のテーマがありますので、今回は四旬節第二主日を取り上げることにしましょう。

四旬節第二主日には、イエスが山の上で姿を変え、その栄光を弟子たちにお示しになったエピソードが朗読されます。A年はマタイ福音書17・1-9、B年はマルコ福音書9・2-10、C年はルカ福音書9・28b-36です。

今回は、マルコ福音書を読み深めましょう。

イエスの公生活が始まり、その権威ある教えと奇跡的なわざによって、多くの人々がイエスのもとに押し寄せてきます。その一方で、イエスを快く思わない人たち、悪いうわさを立てる人たち、イエスに敵対する人たちも増えていきます。公生活の半ばで、イエスは弟子たちに「あなた方はわたしを何者だと言うのか」と尋ねます。すると、ペトロは、「あなたはメシアです」と答えます。(マルコ8・29)。この答えを受けて、イエスははじめてご自身の受難、死、復活について弟子たちにはっきりと述べられます。「そしてイエスは、人の子が多くの苦しみを受け、長老や、祭司長や、律法学者たちに排斥され、殺され、そして三日の後に復活するはずであることを弟子たちに教え始められた。しかも、あからさまに話された」(8・31-32)。しかし、ペトロはこのイエスの神秘を理解することも、受け入れることもできず、イエスをいさめます。そこで、イエスは、「サタンよ、引き下がれ」という厳しい言葉でペトロを叱るのです(8・33)。

イエスが山の上で姿を変え、ご自分の栄光を現したエピソードは、この後に置かれています。イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子だけを連れて高い山に登られます。「その時、弟子たちの目の前でイエスの姿が変わり、その衣は真っ白に輝」(9・2-3)きました。「その白さはこの世のいかなる布晒しでもなしえないほどのものであった」(9・3)という表現は、イエスの栄光の輝きが、この世のものをはるかに凌駕する神からのものであることを示しています。そこに、「エリヤがモーセとともに現れ、イエスと語り合ってい」(9・4)ました。モーセは、出エジプトの際のイスラエルの指導者であり、神から律法を授かった人物です。エリヤは、偉大な預言者であり、死ぬことなく天に上げられた人物、世の終わりに再び天から下ってくると考えられていた預言者です。イスラエルの民は、聖書を「律法」あるいは「律法と預言者」などと呼んでいたので、モーセとエリヤは、聖書(わたしたちにとっての旧約聖書)全体を指しているのかもしれません。イエスは、聖書に記された神の教え、神の計画全体を体現する方、実現する方として描かれていると言えるでしょうか。

いずれにしても、この情景に圧倒された弟子たちは、「何を言ってよいか分からな」(9・6)くなり、「先生、わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです。三つの仮の庵を造りましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」(9・5)と言うのです。ところが、弟子たちが素晴らしいと感じたこの情景は、ペトロがこのように述べたとたんに消え去ってしまいます。「雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声が聞こえた、『これはわたしの愛する子。彼に聞け』。弟子たちは急いで、辺りを見回したが、自分たちと一緒におられるイエスのほかには、誰も見えなかった」(9・7-8)。山を下りるとき、イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話さないようにとお命じにな」(9・9)りますが、ここでも強調されているのは弟子たちがイエスの神秘を理解できていないことです。「彼らは……死者の中から復活するとは、何のことだろうかと論じ合った」(9・10)。

この後も、イエスはご自分の神秘について弟子たちに繰り返しお話しになります(9・30-32、10・32-34)。しかし、その後に記されるエピソードは、やはり弟子たちがこの神秘を理解できていないという事実を明らかにするものです(9・33-37、10・35-45)。

このようなマルコ福音書の流れを考えると、イエスが姿を変えたエピソードも、イエスの死と復活の神秘とこの神秘に対する弟子たちの無理解というテーマに沿って読み取られるべきであると言えるでしょう。イエスは、ご自身の栄光を目に見える形で示されます。弟子たちは、その見える栄光に魅了されてしまいます。彼らの言葉、すなわち「三つの仮の庵を造りましょう」という提案は、この目に見える栄光が永続してほしいという願いを示しています。もっと言うと、イエスの栄光を庵の中に閉じ込めてしまおうとする願いを示しているのです。しかし、この栄光は「これはわたしの愛する子。彼に聞け」という天からの言葉とともに消え去ってしまいます。そこにはもう、「自分たちと一緒におられるイエス」だけしかおられませんでした。弟子たちが見た栄光は、神がご自分の子と呼ばれるイエスの中に、しかも弟子たちが生活をともにしていたイエスの中に見いだされなければならないのです。しかも、イエスはこの出来事を「人の子が死者の中から復活するとき」と結びつけておられます。つまり、弟子たちは、このときに見た栄光を、受難、十字架上の死、復活に向かって歩んでいくイエスの中に見いだしていかなければならないのです。

「彼に聞け」という神の言葉は、まさにこの十字架と復活に向かうイエスに従って歩みながら、そのもとで救いの意味を学んでいくようにとの弟子たちへの招きです。多くの苦しみをお受けになるイエスの中に、人々から排斥されるイエスの中に、十字架上で殺されるイエスの中に、そして復活するイエスの中に、これらすべての出来事の中に神のまばゆいばかりの栄光の輝きを見いだすことができるようになるまで、弟子たちはイエスに聞き従いながら歩み続けるよう招かれるのです。

この招きは、四旬節を歩むわたしたちにも向けられています。わたしたちにとっても、やはり目に見える偉大な神のわざはすばらしく思えます。逆に、苦難の中に神の栄光を見るのはたやすいことではありません。イエスの十字架に救いの価値を見いだしているつもりでも、いざ自分に十字架が降りかかってくると、そこから逃げ出してしまいます。しかし、わたしたちは失敗をするたびに、何度でもイエスのもとに帰り、イエスとともに歩み直すように招かれるのです。「これこそわたしの愛する子。彼に聞け」と。

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