聖トゥリビオ(モングロベホ)司教

今回は、もしかすると日本ではあまり知られていない聖人、トゥリビオを取り上げたいと思います。聖トゥリビオの記念日は3月23日です。

トゥリビオは1538年にスペインで生まれ、巡礼地でも有名なサンティアゴ・デ・コンポステラで法律を修めました。1573年にはグラナダの裁判所の裁判官となり、そして1579年に現在のリマ(ペルー)の司教に任命され、派遣されました。

この時代は、コロンブスなどヨーロッパ人によるアメリカ大陸の「発見」があり、ヨーロッパ(特にスペインやポルトガル)はそれがもたらした活気や宣教への熱意に覆われていました。しかし、後述するように、アメリカ大陸では、占領や略奪、抑圧や搾取、その制度化などといった負の側面も多く見られました。

トゥリビオが司牧の務めを任された場所は、まさにこのような大きな問題をはらんだ地でした。ヨーロッパ人がやって来る前、この地にはインカ帝国が存在し、独自の社会制度と文化形態をはぐくんでいました。そこにフランシスコ・ピサッロが率いる180人のスペイン人がやって来て、帝国を滅ぼし、占領しました(1531〜1535年)。彼らは、キリストの教えを広め、先住民を救うという大義名分のもと、自分たちの行為を正当化しました。占領後も、彼らは先住民にキリスト教を教える見返りとして、自分たちのために働くことを要求できるといった制度を定めていきました。先住民たちは劣悪な生活環境の中に閉じ込められ、しかも占領者たちは、この行為を正当化する根拠とした「キリスト教教育」すら、まともに行ってはいませんでした。残念なことに、聖職者、教会関係者の中にもこのような行為に加わる人たちがいました。

1542年にこの地が正式にスペイン王国の統治のもとに置かれると、王国の政治・社会・宗教制度が導入されるようになりました。しかし、先住民の生活環境を少しでも改善し、真の福音宣教を行おうとする傾向を持っていたこの制度は、ことごとく既存の「占領者」たちの反対にあいました。ちょうどこのころ、トゥリビオは司教としてリマに派遣されました。

トゥリビオが直面した問題は、こうした社会不正だけではありませんでした。当時は、まだいくつかの司教区が存在しているだけで、トゥリビオが任された教区は、面積にして600万平方キロメートル以上(アメリカ合衆国全土の約3分の2の広さ)、北から南まで5000キロメートルにもわたる大きさだったのです。

このような困難な現状を前にして、トゥリビオはおもに2つの点に力を注ぎます。広大な教区を実際に訪れ、ある程度の期間その地にとどまり、直接、人々を力づけ、教会のさまざまな問題に対処すること。そして、教区会議を開催し、教区全体の一致と交流をはかり、重要な案件を決議して、教区の刷新をはかること。実際に、トゥリビオはリマに到着した1581年から1582年にかけて、すぐに最初の司牧訪問を行います。次いで、1584年からは1590年まで6年間にわたる司牧訪問を行います。さらに、1593年から1597年まで第三回目の司牧訪問を行い、1605年に始めた第四回司牧訪問の途中、1606年の聖金曜日に先住民たちの教会でトゥリビオは亡くなりました。トゥリビオの司教職は、まさに司牧訪問にいろどられていました。

トゥリビオのこのような司牧訪問は、特にリマの人々の批判を引き起こしました。司教は政治的・社会的にも重要な役割を持っていたため、長期間、司教が不在であることによって、リマの町ではさまざまな問題が起きていたからです。しかし、トゥリビオは教区全体への、そして特に貧しい先住民への分け隔てない愛と熱意をもって、また批判や抵抗に対する大いなる堅忍をもって、自分の信念を貫き通しました。それだけでなく、司牧訪問の途中でも何度も教区会議を開催したのです。

聖トゥリビオ司教のことを思いつつ、今回は聖書の個所として一コリント9・19‐23を読んでみたいと思います。この個所は、パウロがすべての人を得るため、「何とかして何人でも救うため」、「すべての人に対してすべてのものにな」ったことを(22節)、具体的に例を挙げながら述べています。「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のように」(20節)、「律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のように」(21節)、「弱い人に対しては、弱い人のように」(22節)、パウロはなったのです。

わたしたちは、このような生き方がいかに難しいかを、体験を通してよく知っています。自分と考え方、好み、性格が大きく異なる人がいれば、わたしたちはなかなかその人を受け入れることができません。民族や文化、生活習慣が異なる人に対しても同じです。自分が卑しいと感じている職業や身分の人とも、当たり前のように接することはできません。まして、このような人たちを受け入れるだけでなく、実際にこのような人たちのようになることが求められるとすれば、その難しさはどれほどのものでしょうか。

しかし、パウロはこのように生きてきたと断言します。しかもそれは、福音のためというただ一つの理由のためでした。つまり、「何とかして何人でも救うため」であり、同時に「わたし(=パウロ)が福音に共にあずかる者となるため」(23節)ということです。パウロは、「福音のため」だからこそ、「どんなことでもする」のです。

それは、福音に駆り立てられて、そうしないではいられないということであり、逆に言えば、福音がそのための力を与えてくれるということです。わたしたちは、パウロを初めから「聖人」として見てしまうため、彼が体験した困難を見過ごしてしまうことがあります。しかし、パウロはあれだけユダヤ人であることを誇りにしていた人です。ですから、異邦人に対して異邦人のようになること、弱い人に対して弱い人のようになることは簡単なことではなかったはずです。大きな痛みと苦しみを伴う、忍耐強い歩みが必要だったはずなのです。しかし、パウロにとっては──そして、わたしたちにとっても──ほかの道はありませんでした。自分自身が福音にあずかること、それは福音のためにすべての人に対してすべてとなること以外にないのです。

聖トゥリビオは、真の意味で「すべての人に対してすべてとなった」と言うことができるでしょう。相手がどんな人であっても、彼らが福音にあずかるために、その人たちのようになることができたのですから。特に、搾取されていた先住民に対して、この人々のようになることができたのですから。そして、それを妨げるさまざまな要素──偏見、搾取、権益、迎合、悪習、生ぬるさ、黙認、欺瞞、「世論」など──に忍耐強く、しかし確固として立ち向かうことができたのですから。わたしたちも、聖トゥリビオのように、今の日本の社会の中で「すべての人に対してすべてとなる」ことができるように、そしてそれを妨げる社会制度やさまざまな力、誘惑に忍耐強く立ち向かっていくことができるように恵みを願いたいと思います。

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