聖木曜日 主の晩さんの夕べ

聖ヨハネ・パウロ2世教皇は、最初から聖木曜日を大切にされていました。その頂点とも言うべきものが、2003年の聖木曜日に宛先を全キリスト者に拡大して発表された回勅『教会にいのちを与える聖体』でした。

さて、今回は、主の晩さんの夕べのミサの第二朗読として読まれる一コリント11・23─26を取り上げることにしましょう。なお、聖体の制定のエピソードは共観福音書にも記されています(マタイ26・26─29、マルコ 14・22─25、ルカ22・14─23)。

この箇所で目を引くのは、まずイエスの過越の神秘との強い結びつきです。この食事が過越の食事(主がイスラエルの民をエジプトから解放したことを記念する食事)としてなされたことはもちろん、「引き渡される夜」(一コリント11・23)であったことがあえて記され、また「あなたがたのため」(24節)という目的が述べられた上で、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」(25節)と、十字架上で流される血との結びつきが明示されます。最後の晩さんとは、イエスの十字架上の死と復活を示すものだったのです。

神は、イスラエルの民をエジプトから解放し、彼らと契約を結び、ご自分の民とされました。イスラエルの民にとって、過越の食事とはこの出来事を記念し、自ら追体験する大切な祝祭でした。同じようにイエスは死と復活によって、全人類を罪のくびきから解放し、新しい契約を結び、彼らをご自分の民として一つにしてくださいました。最後の晩さん、すなわちミサが行なわれるたびに、死と復活によって実現したイエスによる完全ないけにえが再現され、私たちはそれにあずかることができるのです。

しかし、ミサには旧約の過越の食事と決定的に違う点があります。それは、イエスご自身が「聖体」としてパンとぶどう酒のうちに現存されるということです(「これは……わたしの体である」24節)。ミサの中でささげられるのは、イエス・キリストご自身です。そして、このいけにえをささげるのも司祭を通して働かれるイエス・キリストご自身なのです。だからこそ、ミサは文字通り、イエスの死と復活の完全な記念・再現なのです。

イエスは、このすばらしい神秘を絶えず行なうよう望まれました。「わたしの記念としてこのように行いなさい」(24節、25節)。この言葉は、単純に受け止めれば、ミサを行ない、イエスの過越の神秘を記念し、再現するようにとの命令であると理解することができます。しかし、「このように」という言葉はもう一つの解釈を求めているようにも思います。それは、十字架の神秘を生きるようにとの命令であるとの解釈です。「このように」とは「イエスがなさったように」ということです。しかし、この食事は明らかにイエスの十字架上の死と復活を先取りしたものなのですから、「イエスがなさったように」とは「自らの十字架上の死を通して人々を救ったように」という意味にもなるわけです。

ミサを通してイエスの過越を記念することと、イエスに倣って自らの十字架を担い人々の救いを実現すること。この二つは、イエスの言葉、「わたしの記念としてこのように行いなさい」によって、一つになるのです。だからこそ、パウロはこの主の晩さんのエピソードを語った後に、当然の結論として言うのです。「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(26節)。「このパンを食べこの杯を飲む」こと、すなわちミサに参加し、キリストのからだとなったパンを食べることは、「主の死を告げ知らせる」ことを意味するのです。主の死を告げ知らせるとは、イエスがその死を通して実現された救いを言葉とわざで証しするということです。

実は、この言葉は、私たちがミサの中で聖変化の直後に「信仰の神秘」として宣言しているものでもあります。「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで」。この日本語で通常用いられる式文では、上述の意味は明確ではありませんが、ラテン語規範版の式文は「主の死を告げ知らせ、復活を宣言しよう、主が来られるのを待ちながら」です。日本語式文でも、「または」として、「主の死を仰ぎ、復活をたたえ、告げ知らせよう、主が来られるまで」という選択肢を載せています。

私たちは、キリストの死と復活によって、罪から解放され、永遠の命に招き入れられました。聖体の秘跡は、これを記念し、再現するものとして、キリストご自身によって制定されました。今も、ミサが行なわれるたびに、キリストの救いのいけにえが再現され、信じる者はこれにあずかることができるのです。時と場所を超えて、キリストのいけにえにあずかることができるのです。

そのすばらしさを理解する者は、キリストの十字架上の死の価値をも理解します。だから、ミサにあずかる者は、自らもキリストが十字架を通して示された生き方(=聖体的な生き方)をしないではいられないのです。

私たちが、ミサにあずかるたびごとに、十字架の神秘と聖体の神秘にますます深く分け入ることができますように。

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