超常識

ずいぶん前のことになりますが、「独創性」ということで、米国のある大学の日本人教授が、ラジオのインタビューに答えていたのを聞いたことがあります。ほかのことをしながら聞いていたのですが、「『独創性を産み出す三カ条』というのがあります」と言うその教授の話に、思わず仕事の手をやめ、聞き耳を立てました。その教授によると、その「三カ条」とは、1「常識を疑う」、2「他人の真似をしない」、3「体で学ぶ」ということだそうです。なるほどな、と思い、忘れないうちにメモしておいたので、記録に残っているわけですが、記憶して独創性が生まれるように努力している、というわけではないので、私自身には何も変わったことはありません。でもそれ以来、私は「常識」という言葉にとても敏感になったような気がします。

これもまた、ずいぶん昔の話ですが、目上の人にある願いごとをしたとき、「まったく、常識じゃ考えられん!」とひどくお叱りを受けて、却下されたことがあります。それほどとんでもないことを言った覚えはありませんでしたので、「そんなに非常識なことですか?」と逆に食ってかかったことを覚えています。若気の至りでしたが、もしかしたら、そのころから、私は「常識」という言葉を意識するようになっていたのかもしれません。

常識とは、文字通りに解釈すると、共通認識ということでしょう。みんながふつうにやっていること、考えていることですね。それから外れたことをしていると、非常識な奴、というそしりを受けてしまいかねないので、平穏無事に生きるためには、常識の世界から出ないようにしなければなりません。

平穏無事は、だれもが望む状態に違いありません。特別なことをする必要はない、危険をおかす必要はない、冒険する必要はない、そんなばかな、といった声を聞くことがあります。自分の二人の息子に「勇気」「元気」という名前をつけた知り合いがいましたが、常識的な人間になってほしくない、という親の気持ちがあったのでしょうか。あの二人はどうなったのかな、と思い出すことがあります。

平穏無事を悪者にするつもりはないのですが、しかし、これが生活の中心テーマであったとしたら、くだんの教授のお話ではありませんが、独創的なものは何も生まれてこないでしょうし、進歩も発展も望めないだろうなあと思います。別に、独創的な人間になりたいとは思いませんが、常識を疑って、発想を転換することができたら、もう少し面白い人生になるかなあ、と考えることはあります。

面白いか、面白くないかは別として、聖書にもこの「常識を疑え」というようなイエス様のみことばがあります。それは、「あなたがたも聞いているとおり、……と命じられている。しかし、わたしは言っておく」というみことばです。マタイ福音書5章21節から48節までの間に、「腹を立ててはならない」「姦淫してはならない」「誓ってはならない」「復讐してはならない」「敵を愛しなさい」という教えの冒頭でそれぞれ5回、繰り返し出てきます。「あなたがたも聞いているとおり、……と命じられている」とイエス様がおっしゃるのは、言い換えれば、「みんなはこんなふうに言ってる」「これまではこうだった」ということでしょう。つまり一般論です。ですから「しかし、わたしは言っておく」というみことばの前に、「そんなことは常識だ」という意味が隠されているのではないでしょうか。

「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」「姦淫するな」「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」「目には目を、歯には歯を」「隣人を愛し、敵を憎め」などといった、これまでの常識のレベルで止まっていたらどうなるかということです。

その前にイエス様は、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(マタイ5・20)とおっしゃるのですが、「律法学者やファリサイ派の義」というのが、この「常識レベルの義」ということなのではないでしょうか。そのレベルに止まっていては、決して天国に行くことはできない、ということでしょう。

ずっとずっと昔、私が10歳くらいのころのことですが、私は一度、母親に「ばか」と言われたことがあります。どのような状況で言われたかも覚えています。私がしでかしたトンチンカンなことに対して、発作的に出てきた言葉だったのでしょう。普段はそんなことを言う人ではありませんでしたし、ほんの一瞬の出来事でしたので、そのことは言った本人の記憶にもないと思います。でもどういうわけか、私がその時、「お母さんに『ばか』って言われた」という記憶は、悲しいわけでも、恨んでいるわけでもないのに、しっかりと私の心に残っているのです。

また、20年くらい前の話ですが、関西に住んでいる私の姪が3歳くらいのころのことです。電話での、何でもない、ありきたりの会話の中で、その姪から「アホか!」と言われたことがあります。関西では、何でもない、普通の会話にはよく出てくる言葉だそうですが、関西に住んだことのない私にとっては、可愛いと思っていた姪から、「アホ」と言われて、大いにショックだったことを覚えていますし、もう大人になったその姪を見るたびに今でも、「この子は私に『アホか!』と言ったことがある」と思ってしまうのです。

こんな話、笑い話の域を出るものではありません。《大昔のこと、まだ3つの、何も分からない幼児の時のこと、本気でそんなこと言うわけがない、常識で分かるだろう》と言われるでしょう。そんなこと百も承知です。でも常識であろうが何であろうが、記憶に残っているのですから、どうしようもないのです。

ところで、私も、不特定多数の人に向かって、「ばか」とか「アホ」とか言ったことがあると思うのですが、どこで、だれに、何回くらい言ったのか、全く記憶にないし、私の言った言葉で、いったいどれくらい人を傷つけたかという認識が、全くないのです。たとえ私にそう言われた人が名乗り出たとしても、《本気だったわけではない、ということくらい、常識で判断してください》という言い逃れはすぐにしそうです。

「殺さなければいいってもんじゃない! そんなことは当たり前だ! それよりも、兄弟に『ばか』と言ってさえも、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言ったくらいでも、火の地獄に投げ込まれるのだ」ということです。言ったほうはすぐに忘れてしまって、加害者の論理で「常識で判断してくれ」で済まそうとするかもしれませんけれど、その常識を超えて、被害者の側から、言われる者のことまで考えない者は、決して天の国に入ることはできない、ということでしょう。

天国に入るのも、「常識を疑い」「他人の真似をせず」「体で学ぶ」ようにして、独創的な生き方を目指さないと、どうも無理なような気がしますなあ。「チョーラッキー!」とか、「チョームカツく!」の「チョー」とは少し違う、「超・常識」に目覚めたいな、と思います。

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