聖ビンセンチオ助祭殉教者

サラゴサ教区の助祭ビンセンチオの生涯について、詳しいことは分かっていませんが、ローマ皇帝ディオクレチアヌスによる迫害の最中、304年1月22日に殉教したため、この日が聖人の記念日に定められています。

ビンセンチオは、サラゴサ教区の司教ヴァレリウスの助祭で、303年に始まった迫害の中でローマ総督ダチアヌスにより司教ヴァレリウスとともに捕らえられました。司教はサラゴサから追放され、ビンセンチオはさまざまな拷問にかけられたようです。聖ビンセンチオ助祭については、アウグスチヌスらが記しており、拷問のすさまじさとそれを乗り越えたビンセンチオの信仰の堅固さが強調されています。ビンセンチオは、このような拷問の末に殉教します。伝承によれば、彼の遺体は海に投げ捨てられましたが、波に流されて陸に打ち上げられ、カラスに守られた後、バレンシア地方北部に埋葬されたと伝えられています。

ビンセンチオの生き方は、迫害に耐え忍ぶ信仰の価値をわたしたちに示す一方で、教会における助祭のあるべき姿を示しています。助祭は、司教とともにあり、常に司教と一致しながら、牧者としての司教の務めに参与します。助祭は、司教の名により、その務めを行使します。ですから、助祭の言葉、行動は、司教の言葉、行動とみなされます。ビンセンチオはまさにこの助祭としての務めに忠実であったのでしょう。そのため、ローマ帝国から教会の一致のかなめである司教と一体の人物とみなされ、ともに捕らえられたのでしょう。ビンセンチオにとって、逮捕され、拷問を受け、殺されたという事実は、殉教の恵みであると同時に、彼自身が神から与えられた務めを忠実に生き抜いたことの証しであったと言えるでしょう。

さて、聖ビンセンチオ助祭殉教者を荘厳に記念するミサでは、マタイ福音書10・17-22が朗読されます。この個所は、イエスが弟子たちを「宣教に遣わすにあたって」(10・5)語られた話の一部です。イエスは、まず12人の弟子たちにご自分の権能をお授けになったうえで、彼らを遣わしています。「イエスは…・彼らに汚れた霊を追い出し、あらゆる患いや病気を癒やす権能をお与えになった」(10・1)。弟子たちは、イエスから受けたので、人々に与えることができるのです。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(10・8)。しかし、イエスから権能を授かったからと言って、宣教活動が順調に進むとはかぎりません。むしろ、宣教者には大きな困難が待ち受けています。イエスも、そのことを弟子たちに隠そうとはなさらず、派遣の前に明言なさいます。「今、わたしはあなた方を遣わそうとしている。それは、狼の中に羊を送り込むようなものだ」(10・16)。「彼らはあなた方を地方法院に引き渡し、会堂で鞭打つ。またわたしのために、総督や王たちの前に連れ出される」(10・17-18)。「兄弟は兄弟を、父は子を死に引き渡し、子供たちは、立ち上がって両親に逆らい、彼らを死に追いやる。また、あなた方は、わたしの名のためにすべての人に憎まれる」(10・21-22)。弟子たちは、この困難に耐え忍ばなければなりません。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(10・22)。「人々を警戒しなさい」(10・17)。しかし、困難を耐え忍ぶ力もまた弟子たち自身からわき出すものではありません。「言うべきことは、その時、あなた方に授けられるからである。語るのはあなた方ではない。あなた方の父の霊が、あなた方を通して語られるのである」(10・19-20)。だから、「人々を警戒しなさい」(10・17)と言われたイエスは、すぐに「人々を恐れてはならない」(10・26)と言い換えるのです。

それだけではありません。困難は、否定的な意味を持つだけではなく、敵対者への証しの機会、宣教の機会ともなるのです。「あなた方は…・わたしのために、総督や王たちの前に引き出されるが、それは、彼らと異邦人に対して、証しをするためである」(10・18)。

神の力に守られている宣教者が、救いの福音を宣べ伝えているのに、どうして反対を受けるのか。どうして迫害され、殉教にまで至るのか。わたしたちには答えることができません。しかし、イエスの教えは、弟子たちがイエスと一致してその務めを果たすかぎり、必ず最後まで耐え忍ぶことができるということ、また困難こそが宣教の機会になるということを示しています。聖ビンセンチオ助祭殉教者の生きざまもそのことを証ししています。ビンセンチオがイエスと一致して助祭としての務めを果たしたからこそ、彼は捕えられ拷問を受けても、殉教に至るまで耐え忍ぶことができました。そして、このビンセンチオの殉教こそが多くの人々の心を揺さぶる機会となったのです。

わたしたちは、イエスの弟子として信仰を生きています。迫害や拷問に遭うことはないかもしれませんが、わたしたちの信仰生活は順風満帆ではありません。さまざまな苦難があり、信仰の妨げとなるような現実にわたしたちはしばしばぶつかります。こうした苦難に意味を見いだすのはたやすいことではありません。だからこそ、苦難さえも宣教の機会、恵みとして受け止めるまでの信仰を、聖ビンセンチオの取り次ぎをとおして願い求めたいと思います。

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