キリスト教一致祈祷週間

キリスト教一致祈祷週間は、すべてのキリスト者、教会の一致を願って定められたもので、多くの国で伝統的に1月18日から25日までの8日間に実施されます。日本でも、この期間に各地で教派を超えた合同の祈祷の集いなどがおこなわれます。

現在のキリスト教一致祈祷週間は、約100年前の1908年に、ニューヨークのグレイムアで、聖公会の司祭(後にカトリック教会に移る)であり、アトメント会の共同創立者であったポール・ワトソン神父が「キリスト教一致のための8日間の祈り」を実施したことに始まるとされています。その後、キリスト教一致のための動きはさまざまな変遷をたどり、第2バチカン公会議によるキリスト教一致への訴えもあり、1968年には、世界教会協議会と教皇庁キリスト教一致推進秘書局が共同で、資料と祈りの式文を作成するようになりました。それ以降、この資料は、毎年異なるテーマ、聖書の個所をもとに作成され続けています(この資料については、カトリック中央協議会にお問い合わせください)。

「そよかぜカレンダー」では、新約聖書の個所を取り上げることを通例としていますが、今回は特別にエゼキエル書37・15-28を読むことにします。

預言者エゼキエルは、紀元前6世紀前半に活躍しました。この時代は、イスラエルの民にとって、その根底をゆるがすような出来事がありました。紀元前587年に、バビロンの侵攻によって、エルサレムが陥落し、神殿は破壊され、王と指導者たちは捕らえられて、遠くバビロンへと連行されたのです(エゼキエルもバビロンへ連れていかれました)。神の都エルサレムが異邦人の手によって破壊されました。ダビデ王家に連なるメシア的な預言、イスラエルの民を永遠に守り導き、繁栄させるとの主の約束、これらすべてが今やエルサレムとともに崩れ去りました。主が打ち負かされてしまったのか、主ははたして全能の方なのか、いやそもそも主はほんとうにおられるのか……。王国の滅亡からくる現実的な苦難にもまして、信仰上の疑問がイスラエルの民を苦しめます。希望を失い自暴自棄になる人、安直で非現実的な希望を語る人、こうした人々の中で、エゼキエルはイスラエルの民の罪と不忠実さをしっかりと見すえます。民のほうが主から離れていき、偶像礼拝に走り、自分の富を追い求め、また苦境に陥っても主の力に信頼せずに、政治的やりくりでそこから抜け出ようとした。だから、主はイスラエルの民を異邦人の手に渡されたのだ。主が力のない方なのではなく、イスラエルの民がその罰を受けたのだ、と。

だから、エゼキエルは、イスラエルの民がみずからの罪の責任を逃れることなく、この現実を受け止め、主に立ち返るように説きます。しかし、同時に、彼は主がイスラエルの民を見捨てることなく、必ず民を救い出してくださるという、信仰に基づく希望を説くのです。エゼキエル37・15-28は、このような希望を語る預言の一つです。

ここでは、「ユダおよびそれと結ばれたイスラエルの子らのために」と書き記される木と、「エフライムの木であるヨセフおよびそれと結ばれたイスラエルの全家のために」と書き記される木を、互いに近づけて一本の木とするように命じられます。そして、「それらはあなたの手の中で一つとなる」と宣言されます(16-17節)。

イスラエルの王国は、ダビデ、ソロモンと続いた後、南北に分裂します。一致を保つことができなかったのです。それ以後、両王国が滅亡するまで、再び王国が統一されることはありませんでした。「エフライムの木であるヨセフおよびそれと結ばれたイスラエルの全家のために」と書き記される木は、北王国(イスラエル王国)の民を意味します。この王国は、紀元前8世紀末にアッシリアという大国によって滅亡します。「ユダおよびそれと結ばれたイスラエルの子らのために」と書き記される木は、南王国(ユダ王国)の民を意味します。南王国は、アッシリアの圧迫には何とか持ちこたえますが、その約150年後、アッシリアに代わって台頭したバビロンによって滅ぼされてしまいます。この二つの王国に分かれて滅ぼされていった民が再び一つにされるという預言をエゼキエルは語るのです。

エゼキエルは、王国の分裂や滅亡を単なる「政治的失敗」とは見ていません。民が一つに結びつけられるとき、「彼らは二度と彼らの偶像や憎むべきもの、もろもろの背きによって汚されることはない。わたしは、彼らが過ちを犯したすべての背信から彼らを救い清める」(23節)と、エゼキエルは語ります。言い換えれば、このような偶像礼拝、背き、背信が分裂を引き起こしたということです。およそ信仰とは関係ないと思えるような政治的、社会的現象も、実は神とのかかわりをどう生きるかという点と密接に関係していることをエゼキエルは告げるのです。

しかし、たとえイスラエルの民がみずからの罪を自覚し、悔い改めたとしても、救いはこのような人間の側の行為によってもたらされるものではありません。救いを実現してくださるのは主なのです。「わたしはイスラエルの子らを……集め、彼らの土地に連れて行く。わたしはわたしの地、イスラエルの山々で彼らを一つの国とする」(21-22節)。「わたしは、彼らが過ちを犯したすべての背信から彼らを救い清める」(23節)。

しかも、それは単なる元の状態の復元ではありません。これまでをはるかに凌駕する状況の実現です。この一致は「永遠に」続き、もはや「二度と」分裂することはないのです。「彼らは二度と二つの王国に分かれることはない。彼らは二度と彼らの偶像や憎むべきもの、もろもろの背きによって汚されることはない」(22-23節)。「皆、永遠に至るまでそこに住む。そして、わが僕ダビデが永遠に彼らの支配者となる。わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。それは彼らとの永遠の契約となる。……わたしはまた、永遠に彼らの真ん中にわたしの聖所を置く」(25-26節)。

ただし、これは「平和の契約」(26節)であり、主が「彼らの真ん中に」住まわれ(26節、28節)、「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」(23節)ことです。内的な深いかかわりをとおしてなされる神のはたらきかけは、イスラエルの民を根底から変えるだけでなく、彼らをふさわしい生き方へと駆り立てていきます。だから、彼ら自身も能動的に「わたしの裁きに従って歩み、わたしの掟を守り行う」(24節)のです。

教会は、エゼキエルのこの預言を、国家の分裂の中に生きるみずからの現状と重ね合わせています。一方で、一致を成し遂げてくださる主に希望を置くとともに、その一方で国家分裂の現実と教会の不一致の現実に関係があることを自覚しています。そして、主からもたらされる一致を生きるとき、それが国家分裂を乗り越えるための大きな証しとなることも確信し、キリスト者の一致を促しているのです。主が与えてくださる一致だけが、真の和解を実現するものであるとすれば、政治的和解や一致のためにキリスト者の一致が果たす役割は決定的なものであるはずだからです。

さて、キリスト者の一致に対するパウロの理解についても述べておきたいと思います。特に、第一コリント書を読むことにしましょう。パウロが第一コリント書を書き送ったとき、コリントの共同体はさまざまな「分裂」に直面していました。まず、パウロ、アポロ、ペトロなどの指導者のだれに付くかで分派争いが起きていました(1~4章)。また、キリスト者の間で争いが起き、これを教会の中で解決しようとせずに、裁判所に持ち込んでしまうことさえありました(6章)。偶像に供えられた肉を食べていいかどうかで論争が起こり、あるキリスト者たちの行動は別のキリスト者たちをつまずかせていました(8~10章)。主の晩さんの記念をおこなうために集まりながら、食べ物のことでいさかいが生じていました(11章)。また、霊的な賜物の優劣を競い合うことまで起きていました(12~14章)。

これに対して、パウロはキリスト者の一致をキリストとのかかわりに基づいて語ります。キリストがすべての人のために十字架につけられたのであり、だれもがこのキリストを信じ、キリストの名によって洗礼を受けたこと(1・13参照)。そして、だれもが、唯一のキリストのからだを食べ、キリストの血にあずかるということ。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」(10・16-17)。「一つの霊によって、わたしたちは、……皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです」(12・13)。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(12・27)。

キリストに結びつけられ、キリストの霊に生かされ、キリストのからだを分かち合っているかぎり、キリスト者はそれぞれ違いを持ってはいても、皆一つのからだに結ばれているのです。パウロにとって、キリスト者の一致は単なる努力目標ではありません。キリスト者は、一致しなければならないのではなく、キリスト者となったときからその本質からして一つなのです。

パウロの信仰上の確信は、さらに大胆な理解へと発展します。キリストとのかかわりにおいて、キリスト者が一つであるのなら、キリスト者が分裂しているとき、キリストが分裂しているのである、ということです。キリストの力が、わたしたちの一致に決定的影響を与えるだけでなく、逆にわたしたちの罪がキリストにも影響するという、この大胆な発想は、すべてのキリスト者がキリストと分かたれることなく結びつけられているという理解から生まれてくるものです。だから、パウロはコリントのキリスト者に強く問いかけるのです。「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」(1・13)。

このように、パウロにとって、キリスト者同士の争いで問題になっているのは、キリストの教えに従っていないとか、それが宣教の妨げになるといったことではありません。キリストに結ばれた者であるかぎり、分裂の事実は、キリストの救いの神秘を覆してしまっているのです。結局のところ、その人は分裂することによって(無意識のうちにではあっても)キリストとの結びつきを否定してしまっているのです。

キリスト者が一致することの意味、分裂したままでいることの意味を、キリストとのかかわりという視点から深く見つめてみたいと思います。たしかに、一致への歩みは容易ではありません。しかし、だからといって、それで放棄することのできるような二次的な問題ではないのです。わたしたち自身のキリストにおける救いが問われているのですから。

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