聖カミロ(レリス)司祭

7月14日に、教会は聖カミロ(レリス)司祭を祝います(典礼暦上は任意の記念日)。カミロは、1550年、中央イタリアのキエティ近郊の町ブッキアニコで生まれました。父親は軍人でしたが、遊興好きのため財産を失ってしまいます。カミロも父親に似て、若いころから賭け事に熱中し始めます。ベネチアやスペインの傭兵となりましたが、それもどうやら賭け事のためのお金を得るのが目的だったようです。結局、剣や甲冑、最後には衣服までもつぎ込んでしまいました。

こうして一文無しとなったカミロは、カプチン会の修道院に身を寄せます。その後、流浪の旅を経て、ローマの聖ヤコブ病院で働くことになります。しかし、軍人としての生活で傷めたのでしょう。足の傷の悪化のために、この病院で治療に専念せざるを得なくなりました。そうこうするうちに、1575年、25歳のときに、カミロは回心の恵みを受けます。回心したカミロは、カプチン会の修道士となることを決意します。しかし、またもや足の傷が悪化し、やむなく修道院を去ることになります。一時的に傷がよくなっては、再び修道院に行き、傷が悪化しては修道院を出るということを繰り返し、カミロは再び聖ヤコブ病院に受け入れられ、1584年に司祭になるまでそこで働くことになりました。

当時の病院の実情は、劣悪極まりないものでした。ローマの聖霊病院(教皇の望みにより創設された病院で、常時 300床を備え、非常時には500床まで収容できるほどの規模を誇っていました)など、設備はすばらしいものでしたが、責任者や医師、その他の病院従事者は、自己の名誉や権益を高めることに熱心な人がほとんどだったのです。この時代のある監察官の報告によれば、夏の暑い中、病人が詰め込まれ、シーツなどは半月に一度ほどしか交換されず、医者は日中の間、病室に姿を見せることなく、食事も遅れて配膳されるうえ、食事の介助をする者はだれもいないといった状態だったようです。

まさにこの聖霊病院で、カミロはその同志たちとともにボランティアとしてその活動を始めます。カミロが目指した活動、それは病院の中でさえ放置されている貧しい病人たちに奉仕することであり、彼らがどのように介護されるべきかを教え、病院を刷新していくことでした。カミロが大切にしたのは、母親が病気の子どもを愛するような態度で、だれひとり分け隔てすることなく、病人に接することであり、柔和、尊敬、相手に対する理解、迅速さをもって彼らに奉仕することでした。

カミロを中心とする同志たちの集まりは、病者に奉仕する修道会として、1586年に教皇の認可を受けます。また、赤十字を刻んだ修道服の着用を認められます。カミロ自身はローマ以外で活動する意図はなかったようですが、修道会の活動は各地の求めに応じて、またたく間にイタリア全土に広がっていきます。これ以後、カミロは仲間たちを力づけ、彼らに具体的な指導をするために、この修道会が奉仕をするあちこちの病院をめぐって旅することになります。足の傷は生涯、カミロにつきまといましたが、それでも彼は足を引きずりながら旅を続けました。目的地の病院に着くと、カミロは休む間もなく、まず病人たちのもとに駆けつけて彼らに奉仕しました。また、各地の訪問先や旅の途中でも、仲間たちへの指針を書きつづることをやめませんでした。このような証しと教えを残し、カミロは1614年7月14日に亡くなりました。

さて、聖カミロを特別に記念する際に朗読される福音の個所は、ヨハネによる福音15章9−17節です。今回は、この個所を読みながら、カミロの生き方について、もう一度振り返ってみましょう。

この個所の中心、それは「互いに愛し合いなさい」との「おきて」です。しかし、それは単にわたしたちが義務づけられている「命令」なのではありません。わたしたちが愛し合う前に、すでに父である神が無限の愛によってイエス・キリストを愛してくださいました。そして、キリストがこの愛をもってわたしたちを愛してくださいました(9−10節)。この愛がわたしたちにも与えられたからこそ、わたしたちは互いに愛し合うことができるのです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(12節)との言葉は、命令である以前に、「わたしがあなたがたを愛したのだから、あなたがたもそのように愛し合うことができる」という恵みの神秘の宣言なのです。

病人に対するカミロの愛の奉仕には、この神秘がよく表れていると思います。それ以外には説明がつかないほど、カミロの回心(変化)は劇的なものでした。自分の興味のため、賭け事のためにすべてをつぎ込んでいた者が、見捨てられたような貧しい病者のために徹底して尽くす者となったのです。カミロはおそらく自分に注がれた神の愛と人々の愛に気づいたのでしょう。あれだけひどい生活をしていたのに、常に救いの手を差し伸べてもらい、生き延びることができたのですから。この神の愛と人々の愛が、カミロの中で大きな力となって、今度はカミロが神の愛で病者に奉仕していったのです。

ところで、この神の愛、キリストの愛は、「選び」という言葉でも言い表されています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(16節)。キリストがわたしたちを愛し、わたしたちを選び、わたしたちに力を与えてくださったからこそ、わたしたちはキリストの愛を実践し、実りを結ぶことができるということなのでしょう。

カミロの生涯はまさに、カミロが選んだものではなく、キリストが選んだものでした。カミロは遊興三昧の生活を望んでいましたが、神は別の道を用意しておられました。回心をしたカミロは、カプチン会の修道士となることを望みましたが、神は別の道をカミロのために選んでおられました。足の傷の悪化のために「やむなく」連れていかれ、働くことになった病院、しかし、そこに神が選んでくださったカミロの道があったのです。カミロは、神が足の傷をとおして自分をこの道に導いてくださったことを認め、これを恵みとして感謝するようにさえなります。逆説的な言い方になりますが、カミロを悩ませた足の傷こそが、カミロに対する神の無限の愛の確固たるしるしとなったのです。

カミロの生涯を思うとき、はたしてわたしたち一人ひとりへの神の愛はどのような形で注がれているのだろうかということを考えさせられます。「愛」と言うとき、わたしたちはどうしても心地よい恵みを思い浮かべてしまいます。わたしたちが嫌がるようなこと、重荷になるようなことは、耐えなければならない十字架と受けとめることはできても、それを素直に神の愛と受けとめることは難しいでしょう。しかし、実は、わたしたちが本能的に拒絶したくなるような恵みを注ぐことによってこそ、神はわたしたちを愛してくださる、そこにこそ神が選んでくださった道がある、カミロの生涯はわたしたちにそのことを示しているように思うのです。

聖カミロについて、さらに詳しく知りたい方には、栗栖ひろみ著『愛の看護人──聖カミロの生涯』(サンパウロ)をお勧めします。小説風に書かれた伝記で、遊興好きで野心家のカミロが回心していく様子、しかし足の傷のために思うような生涯を送ることができずに翻弄されていく様子、そしてついには病者への奉仕の使命に気づき、「愛の看護人」へと変えられていく様子が生き生きとつづられています。

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