1. マルチェッリーノ神父、日本へ出発前の日々

前置き

聖パウロ修道会歴史編纂部が2016年に日本管区に新たに出来て、私がその部署に配属された。管区長から私の知っているパウロ会での体験談でも良いから書き遺してくれと依頼された。思えば私が敗戦後の翌年、昭和21年(1946年)の11月に若葉修道院に初めて来た当時、そこにいたメンバーたちの最年少者が18歳の私であった。その時から70年を経た今年2016年には、日本のパウロ会の中で私は最高齢の1人となった。長く生きた割には亡き先輩たちの苦労や多様な任務に比べれば足もとにも及ばない。

それにもかかわらず手始めに日本のパウロ会支部を創設した2人のイタリア人パウロ会員、パウロ・マルチェッリーノ神父とロレンツォ・ベルテロ神父について、私の手元にある資料をもとにして来日前後の状況を紹介してから、来日当初の状況(三河島教会と大森)、その後王子教会での宣教・司牧、戦争中の昭和19年からの若葉修道院での活躍、翌年5月、米軍の焼夷弾爆撃による若葉修道院の全焼、パウロ会員の分散生活、戦後復興への歩みを紹介し、それに私の体験をも加えて記事にしてみたいと思う。

マルチェッリーノ神父、日本へ出発前の日々

マルチェッリーノ神父が日本の存在を知ったのは、日露戦争(1904-1905)において東洋の果ての小国日本が西洋の大国ロシアを打ち負かしたという大ニュースによってである。西洋の先進国に植民地化された東洋諸国は勿論のこと、ロシアと国境を接するトルコとフィンランドは大喜びであったという。日露戦争以前から英国との軍事同盟で一躍世界の5大強国(英国、米国、フランス、ドイツ、日本)の1つにのし上がった日本をマルチェッリーノ少年が気に留め無いはずはない。

その後、1925年(大正14年)、同神父が司祭叙階されたばかりのその年、サレジオ会の日本支部創設者チマッティ神父が、トリノのサレジオ会修道院から南東のアスティを経て、車で2時間ほどかかるアルバのパウロ会に来て、当時、出版・販売担当をしていたマルチェッリーノ神父とたまたま出会った。

チマッティ神父が言うには「今、私は日本に行くことになったので、行く前に私どもの使徒職では出版もやりますから、聖パウロ修道会で発行したすべての本を1冊ずつ買いに来ました。」と言った。マルチェッリーノ神父が注文された本を手渡すとチマッティ神父は代金を払ったあと、微笑みを浮かべながらこう話しかけた。

「しかしねえ、出版は私どものたくさんの使徒職の中の1つなので、専門的にこういう事業をやっているあなた方が日本に来なくてはいけませんよ。」と。マルチェッリーノ神父はその言葉を気にしていたが、10年前に誕生したばかりのパウロ会のアルバ母院では忙しくて手が回らない。日本に行きたくてもそれどころではないと宣教師になるのをあきらめかけていた。

ところが、その9年後の1934年(昭和9年)に、マルチェッリーノ神父がジャッカルド神父を手伝うためにローマにいた時、創立者アルベリオーネ神父もその夏、何かの用事でローマに滞在していた。そして一緒に車でローマの中心街を回っている時、マルチェッリーノ神父がバチカンの新聞「オッセルバトーレ・ロマーノ」の記事を思い出して創立者にこう話しかけた。

新装の背広姿の二人

新装の背広姿の二人

日本への宣教を志願

「今日の新聞に面白いニュースが出ていました。それはスイスにいた日本人外交官が洗礼を受けて、今度外交官を辞め、カトリックの書物をたくさん買って帰国するそうです。日本でこれらの書物を翻訳して出版するそうです。洗礼の恵みへの感謝のしるしにこの仕事をやり遂げたい、という記事を読みました。」
このようなことを創立者に申し上げて、「もし私をどこか遠いところに行かせるおつもりなら日本へ行かせてください。日本人はそれほど背が高くはないので、背の低い私もそんなに目立たず、ちょうどいいです。」と申し出た。

その時、創立者はただ笑って返事をしなかった。この件は6月か7月のことであった。すると同年の10月17日にローマにいたマルチェッリーノ神父は、アルバにいた創立者から思いがけなくも小さな紙切れの入った手紙を受け取った。その封筒はしわくちゃになっていて節約のために裏返しにしたものであった。そこには2行ばかりの緊急通知書が入っていた。

「あなたも外国で支部を設ける仕事をしなければなりません。ハンガリーか、日本かを選びなさい! アルベリオーネ。」と。

昭和初期の創立者(右)とジャッカルド神父

昭和初期の創立者(右)とジャッカルド神父

創立者の選んだ日本宣教への準備

マルチェッリーノ神父は当時を振り返ってこう語る。「私はそれを見て飛び上がりました。これは大変だ。それですぐにその場で『私には選べません。あなたが選んでください。』と返事を出しました。しかし私の手紙が向こうに着く前の10月17日に創立者から次の手紙が来ました。『最初に出る船で、日本へ行きなさい。』マルチェッリーノ神父は、素直に『はい、行きます。』と返事をした。

その翌日、1934年10月18日はマルチェッリーノ神父が司祭に叙階されてから9年目の日であった。その日、朝早くローマ中心街のスペイン広場へ向かった。そこには船会社の事務所がたくさんあったからである。船便の手続きをする前に、近くの聖心会の女子学院内で特別の巡礼地のようになっているマーテル・アドミラビリス(感嘆すべき御母)という聖母のご絵が掲げられている祭壇でミサを捧げた。その後、そこの院長に面会して日本支部設立に関する紹介状を書いて頂いた。

昭和初期のローマ支部修道院

昭和初期のローマ支部修道院

それから船会社を方々まわって、やっとイタリアの船が11月11日にアドリア海方面の港に着くということで、それを予約してすぐに創立者に知らせた。またスペイン広場にはバチカンの布教省(現福音宣教省)があった。日本はその管轄領域に入っているので、マルチェッリーノ神父はそこの長官である枢機卿のところへ挨拶に行った。当時のことを回顧してこう語っている。

「応接係の人に話しかけて、『日本へ行けと言われたのですが、背広で行くのか、スータンで行くのか、さっぱりわからないので必要なことを教えてください。』
すると『背広です。』と教えてくれました。
『それではすぐに注文します。何せ11月11日に発つのですから。』
『しかし手続きしましたか?』
『何の手続き?』
『この布教省の枢機卿の許可がなければ、あのような国へは行かれませんよ!』
『そうですか。私にはわかりません。きっと創立者がしたのでしょう。私はわかりません。行けと言われて行くだけです。』(編者注 後日この無断出発が東京大司教のお目玉を食らうことに発展)
『ああ、そう。』
いろんなおしゃべりをしたあと、『あのう、枢機卿に祝福してもらうことはできますか?』と尋ねました。
すると『それはできますよ。お年寄りですけれども夕方の7時にはいらっしゃるので、その時に話をすればいいでしょう。』と教えてくれました。
その晩、出かけて行って枢機卿に面会し、『私は今、こう、こう、こういうことになりました。』と話を切り出した。
すると『許可はありますか。』と聞かれました。
『さあ、私にはそういうことは分かりません。しかし日本語は難しいので覚えるまでは随分と時間がかかると思います。もし万一、許可を取ってないならばそのうちに取りましょう。』
『それはそうだね。』
それから、その枢機卿から祝福を受けて布教省を後にした。」

ところでマルチェッリーノ神父と一緒に乗船するパウロ会の宣教師は、中国大陸へ向かうファッシーノ神父とベルティーノ神父の2人、それから日本へ向かうロレンツォ・ベルテロ神父であった。

次にベルテロ神父の著書『日本と韓国における最初の聖パウロ会宣教師たち』の資料をもとに同神父の日本宣教へ出発するきっかけを述べよう。

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