聖マリアの奉献

わたしたちは、聖マリアを救い主イエスの母として、またわたしたち教会の子らの母として、特別に崇敬しています。しかし、新約聖書はこのマリアについてあまり多くのことを語ってはくれません。マリアの神秘、すなわち原罪の汚れなしに生まれたことから始まって、すでに天における喜びにあずかっていること(被昇天)に至るまでの神秘のほとんどは、聖書にではなく、教会の聖なる伝承に基づいています。今回取り上げる「マリアの奉献」の神秘も、聖書には記されておらず、聖伝に基づくものです。

マリアの奉献とは、彼女が幼少のときから自分自身を神にささげたこと、清い生活をしていたことを意味します。教会が、このマリアの奉献を11月21日に記念するのは、543年のこの日にエルサレムで「新マリア教会」の献堂式が行なわれたことから始まっています。

マリアの奉献の神秘は、ある意味で、無原罪のおん宿りの神秘と対になっています。マリアに与えられた特別な恵みはすべて、イエスによって人類を救うという神の計画によるものです。神がマリアを選び、このマリアからイエスが生まれることを望まれたために、マリアはその使命を果たすことができるよう、特別な恵みで満たされたのです。マリアが原罪なしに生まれたという神秘は、このことを最もよく示しています。この時点で、マリアは自らの側からは何の働きもしていません(まだ生まれていないのですから)。マリアが原罪なしに生まれてきたのは、マリアがすばらしかったからではなく、またマリアがその恵みを受けるに値する行ないをしたからでもなく、ただ神がイエスによる救いの実現のためにそう定められたからであり、それは一方的な神の側の働きかけによるものです。

しかし、神はご自分の力だけで救いのわざを実現することを望まれません。神は、そうすることのできる力を持っておられるにもかかわらず、あえてわたしたち人間とともに、つまり人間の側の承諾と応答を通して、救いのわざを成し遂げようとなさいます。わたしたちが、不十分ながらも、神のみ心を理解し、自由な決断をもってそれに応えようと努めることを、神は求めておられるのです。

マリアの場合もそうでした。神はマリアを特別な恵みで満たされます。しかし、マリアが自らその恵みに気づき、自らの自由な意志で自分をささげることを望まれたのです。マリアの奉献、それは神のみ心と恵みに対するマリアの側からの応えなのです。

ただし、マリアは原罪を免れていたとはいえ、人間としての弱さ、限界、苦しみを超越していたわけではありません。実際に、福音書はイエスの誕生や幼年時代のエピソードの中で、すでに成長したマリアがイエスの神秘を十分に理解できていなかったことを記していますし(たとえば、ルカ2・50、「両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった」)、預言者シメオンを通して、マリアの大きな苦しみについても語っています(2・35、「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」)。

おそらく、幼いマリアはまだ自分の使命を知らなかったことでしょう(そうでなければ、天使によるお告げのときのマリアのとまどいが説明できません)。その信仰も、子どもに特有の無邪気で未熟なものであったかもしれません。しかし、大切なことは、マリアが自分の年齢と状況の中で、神に応えたいと願い、そのために自分をささげて、最大限の努力をしたということなのです。マリアの奉献の神秘は、彼女が幼少の頃から何一つ欠けたことのない聖なる生活をしていたことを示そうとしているのではありません。マリアが自分の年、自分の状況の中でできるかぎり神に応えていったこと、マリアの成長が常に神への応答とともになされていったことを意味しているのです。

さて、すでに述べたように、マリアの奉献の出来事は聖書に記されていません。そのような中で、教会はマリアの奉献を荘厳に祝う場合のミサの中で朗読する福音として、マタイ12・46‐50を定めています。これは、イエスの公生活中のエピソードの中でマリアが登場する数少ない箇所の一つです。

イエスは群衆に教えを述べておられます。そこに、イエスの母や親戚たちがやって来ます。彼らには、何か「話したいことがあった」(46節)ようです(しかし、何を話したかったのかは記されていません)。そこで、ある人がこのことをイエスに伝えます。ところが、イエスはその人に「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」と尋ねるのです(48節)。読み方によっては、マリアに対してずいぶんと冷たい言葉のように感じられます。しかし、49節で「弟子たちの方を指して言われた」と記されていることからもわかるように、ここでイエスはマリアについて語っているのではありません。むしろ、血縁による結びつきを越えた、イエスを中心とする新しい神の家族について述べておられるのです。もはや、イスラエル民族、ユダヤ人という血縁によって神の民が構成されるのではなく、「天の父の御心を行う」ということによって新しい神の民、神の家族が実現するのです。

「天の父の御心を行う」ことは、イエスの教えの中で、救いのための決定的要素とされています。イエスは山上の説教の結びで、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7・21)と述べておられます。それに続いて、終わりの日に「御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行った」(7・22)人たちが、「不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」(7・23)と宣告される様子が述べられます。ここで、「天の父の御心を行う」ことは、言葉だけで実践をともなわないことと対比されているだけではありません。たとえ、「御名によって」すばらしいこと(預言、祓霊、奇跡)を行なっても、御心をたずね求めようとはしないこととも対比されているのです。

このマタイ12・46‐50は、前述したように、直接にマリアのことについて教えているのではなく、新しい神の家族について教えています。しかし、教会がこの箇所をマリアの奉献の記念日に朗読するということは、典礼の中でこの箇所の教えとマリアの奉献の神秘が結びつけられていることを示しています。つまり、教会はマリアの奉献の中に「天の父の御心を行う」マリアの姿を見ているのです。マリアは特別な恵みによって、イエスの母とされました。しかし、マリアの偉大さはこの「血縁」にあるのではなく、マリア自身が幼少の頃から絶えず神の御心を探し求め、これを行なう者となったことにあるのです。天の父の御心を行なう者がイエスの母、兄弟、姉妹であるのなら、マリアこそが第一にこのイエスの家族の一員であるということです。マリアはイエスを生んだからイエスの母であるだけでなく、天の父の御心を行なうことにおいてもイエスの母なのです。

もちろん、わたしたちは、マリアに与えられた特別な恵みを受けているわけではありません。それでも、一人一人が、救いのわざの完成のために、それぞれ異なる使命、能力、状況を神からいただいています。ですから、マリアにならって、自分の置かれた場の中で神の御心を求め、これを行なうよう心がけたいと思います。そうすることによって、真のイエスの家族となることができるのですから。

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