世界宣教の日

教会は、典礼暦とは別に、一年の中でいくつかの特別な日を定めています。すでに見た世界病者の日(2月11日)や今回取り上げる世界宣教の日(10月の最後から2番目の日曜日)が、それにあたります。このほか、世界平和の日(1月1日)、世界召命祈願日(復活節第4主日)、世界広報の日(復活節第6主日)などがあります。教会が特別に必要としていることを、全世界のキリスト者が思い起こし、その実現のために祈り、活動することができるように定められています。教皇は、これらの日のほとんどについて、毎年あらかじめメッセージを発表します。世界宣教の日にも、メッセージが発表され、今年の表題は「キリスト・イエスのしもべ、使徒」です。今回は、このメッセージに基づいて、「宣教」について考えることにしましょう。

宣教は、教会の本質的使命・特徴の一つです。わたしたちは、キリストと出会い、洗礼を受けて、キリストによる救いにあずかりました。しかし、神が救おうとなさっているのは、すべての人です。世界には、まだこの救いの恵みを知らない人がたくさんいます。いや、世界全体が救いを求めて苦しんでいます。貧富の差、民族・宗教の違いによる差別や暴力、人権の侵害、不正、環境破壊……、さまざまな問題を前にして、世界は正しい解決策を見いだせずにいます。しかし、信仰の恵みを受けたわたしたちは、キリストこそが救いであることを知っています。だから、わたしたちはキリストを告げ知らせるのです。

その意味で、宣教は愛のわざです。ただし、それはまず第一にわたしたちの愛を表すものではなく、神の愛を表すわざです。神が全人類を愛しておられ、すべての人を救おうと望んでおられるからこそ、わたしたちはこの愛に駆り立てられてキリストを宣べ伝えるのです。

もちろん、宣教にはさまざまな困難がともないます。教皇メッセージは、召命の減少による司祭・修道者の不足という問題に触れています。日本では、キリスト教に根差さない文化をどのように福音化していくかという大きな問題があります。しかし、どのような困難や問題があるとしても、宣教をおろそかにすることはできません。宣教は、神の望みであり、神のわざだからです。

教皇は、パウロ年(2000年)に宣教者の模範としてパウロを取り上げています。そこで、今回は、教皇がメッセージの中にも引用している一コリント9・16の前後を含めて、読み深めたいと思います。

パウロは、一コリント9章で、自分が「使徒」であることについて主張していますが、それは8~10章までの文脈の中で語られています。ここで問題とされているのは、偶像に供えられた肉を食べること、そしてこの行為が一部のキリスト者に与える影響についてです。

偶像に供えられた肉を食べてもいいかどうかについて、パウロは次のように論じています。「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」(8・4)ので、このような肉はほかの肉とまったく同じものであり、だからこれを食べることは自由である、と。しかし、パウロにとって、行為の最終的な基準は、「自由」にあるのではなく、「神の望み」にあります。パウロが重視するのは、偶像に供えられた肉がほかの肉と同じであると考えることのできない「弱い」キリスト者がいて、つまずいてしまうという事実です。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださった」(8・11)からです。行為が許されているからといって、弱い兄弟のことをかえりみず、この兄弟が滅んでいくのを放置することは、神の望み、キリストの死を無にしてしまうことを意味するのです。だから、パウロは宣言します。「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」(8・13)。

その後、10章でもパウロは強調します。「『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」(10・23-24)。「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(10・31)。

さて、これにはさまれた9章で、パウロは自分が使徒であることを主張します。それは、使徒としての権利をパウロが用いないために、パウロは使徒ではないと考える人がコリントの教会にいたからのようです。ここでも、パウロの視点は同じです。キリスト者にとっての最終的基準は、権利を持っているかどうかではなく、神の望みを果たしているかどうかであり、それがすべての人の救いにつながっているかどうかであるということです。パウロが使徒としての権利を用いないのは、その権利を持っていないからではなく、「キリストの福音を少しでも妨げてはならない」(9・12)からであり、「何とかして何人かでも救うため」(9・22)です。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」(9・23)。これがパウロの望みです。

ここには、パウロのキリスト理解、宣教理解がみごとに現れています。パウロは、キリストに捕らえられた者です。キリストの恵みと喜びに満たされた者です。だから、もはやキリストの思いには逆らえないのです。しかし、パウロはいやいやながら従っているのではありません。パウロにとっては、もはや、キリストに従うことこそが救いであり、最上の喜びなのです。だから、パウロは言うのです。「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです」(9・16)。パウロにとって、宣教は「自分からそうしている」のではなく、「強いられてする」「ゆだねられている務め」なのです(9・17)。宣教は、パウロ自身から生じる人間のわざではなく、神がパウロにゆだねてくださった神ご自身のわざ、その意味で「強いられた」わざ、言い方を変えると、「そうせずにはいられないこと」なのです。

パウロは、神が与えてくださったこの使命の実現を第一に考え、すべてをこれに従わせていきます。使徒としての権利を用いないこと、「すべての人に対してすべてのものになる」(9・22)こと。パウロが、さまざまな困難や多忙さの中にあっても(たとえば、二コリント11・23-28参照)、それを理由に宣教活動を縮小したり、放棄したりせず、熱意を燃やし続けたのもこのためです。

わたしたちも、世界宣教の日にあたって、このパウロにならいたいと思います。パウロのように、福音のすばらしさを感じ取り、救いの喜びに満たされることができますように。そして、この喜びに突き動かされて、少しでも多くの人に救いの福音を告げ知らせることができますように。

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